誠信堂徒然日記

まちづくり、地域のこと、旅行記、教育や社会問題等徒然と。

伊根・菅野の火祭り

8月15日、伊根町菅野で執り行われた火祭りに参加してきた。

概要はこちら

これは、知り合いの新聞記者さんのFacebookに「今年は松明の担ぎ手を広く募る」という書き込みを見つけて、早速申し込んだもの。私自身、仕事や個人研究、また活動等で地域のお祭りや行事のお手伝いをすることが多いが、その課題の多くは「どのように引き継いでいくか」である。「引き継ぐ」と言っても、過疎化・高齢化で若者が少なくなったから、ということもあるし、マンネリ化したものをいかにブレークスルーするかということ、あるいは地域の人たちの関心をいかに高めて、参加意欲を高めるか、ということもある。「地域」「文化」「コミュニティ」等が研究キーワードの自分自身として、ぜひ参加して、この目で見てみたいという思いが湧いてきて、新聞記者さんを通じて申し込むことにした。

当日、レンタカーを借りて、京都市内から一路伊根町へ。お盆休みはすでにUターンになっており、京都縦貫道は渋滞もなく、2時間あまりで伊根町へ。京都北部もずいぶん近くなった。

少し早く着いたので、伊根の舟屋界隈を散策。ちょうどお盆中ということもあり、観光客ももちろん多かったが、地域の人たちはお盆の行事の準備に余念がない。

伊根の舟屋から車で10分ほど山の方へ行くと菅野の集落への入り口がある。府道から細い坂道を登っていくが、一体どこに集まるのか、どこが会場なのかわからない。一旦集落らしきところを出て、府道に戻り、ウロウロしていたが、やはり場所は間違いないことがわかり、元の場所に戻る。注意深く車を走らせると、「公民館」と書かれた建物を発見。他府県ナンバーの車が数台止まっているので、ここに違いないと思い車を止めた。

するとそこには知った顔が。もちろん火祭りのお手伝いに駆けつけているのだが、こんなところで出会えるとは本当に偶然。

”よそから”集まった若者(?)は自分を含めて4人。新聞記者(呼びかけ人)、教師、自治体職員、漁師、いずれも仕事や移住で京都北部に住んでいる、拠点を構えている人ばかりである。私自身も2015年3月までは、この京都北部で仕事をし、活動拠点を置いていた。

7時ごろ、地域の方々も公民館に集まってこられる。そこでまず挨拶をし、準備にかかる。公民館にある放送で火祭りが始まるので、参加してほしい、と呼びかけがあった。私も靴をジョギングシューズに履き替え、シャツを長袖に替える。松明から火の粉が降ってくるとのことだ。

公民館から松明が運び出される。枯れ木や竹などをわらで束ねたもので、束ねたものの量によって太さはまちまち。これを持って山の登り口まで行く。

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そこでは地元の若者たちが集落に向けてロケット花火を打っていた。それが何を意味するものなのかはよくわからない。また、時々「ちょーりょー(?)」という掛け声を上げる。ここから見渡すと集落全体を眺めることができる。山間に開けた小さな集落であることがよくわかる。

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ここで松明に火をつける。松明の先端に灯油をかけ、元火から火を移す。すると勢いよく燃え上がる松明、そうでもない松明とがある。自分が持った松明は予想以上に重く、また火の点きもあまり良くない。

この火のついた松明を振り回し、山を登っていく。松明を持った男たちは、道端にも火をつけながら登っていく。山火事にならないのかと心配になるが、後ろから来る人が火を消しながら登ってくるのだという。

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途中から坂が急になる。本当の「山登り」になるが、肩には火の点いた松明を担いでいる。火の粉が靴の上に落ち、靴が溶けた。熱いので、火の粉を消そうとする。そうすると、バランスを崩し、こけそうになる。後ろには人がいるので、こけることもできない。

やっとの思いで、頂上まで上がると、火が勢いよく燃えている。よく見ると、火は土を掘り、くぼませたところに薪を置き、その中で燃えている。火柱は2階、3階分ぐらいの高さになっているだろうか。その正面には祠がある。火の中に運んできた松明を投げ込んで一休み。着替えたばかりなのに全身汗だくである。

松明を持って山に登るにあたり、気づいたのは、足元は地下足袋がベストなのではないかということ。火の粉が降ってくるので、火に強く、山道でも滑りにくいもの。となると地下足袋に及くはなしである。

そこで、火を眺めながら「よそから集まった若者たち」と語らう。聞くと直接間接で様々な知り合いとの接点があることに気づく。登ってきた人たちにはジュースやビール等が振舞われる。汗をかいた体には嬉しい。

燃えている火の周りには薪が置かれている。それを火の中に投入し、火の勢いを上げる。火が照らす木々の間からは満月の月が眺められ、幻想的な光景である。

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しばらくすると、燃え盛る火と祠の間の地面に描かれた円の中で相撲が取られる。つまりこの円は土俵であることがわかる。まずは地域の若い人たちが年長者の「ご指名で」土俵に「あがらされる」。なんとなく「渋々」の雰囲気満載。ところが、取組が始まると力がこもる。老いも若きも手加減なし。本気で取り組み相手を投げにかかることも。

次々と対戦相手が「指名され」、取組が続く。そこでは笑いあり、チャチャ入れありで楽しい雰囲気。村の男たちが一堂に会する良い機会になっているのだろうと思う。

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9時ごろ、火祭りは締めにかかる。軽トラに水槽を積み、そこから火の周りに水をかけていく。直接火に水をかけても「焼け石に水」になるので、穴の周りに水をかけ、延焼を防ぐのだという。

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一通り火が鎮まると下山。今度の道は比較的なだらか。途中墓地を通り、集落に戻る。

山を降り、みんな揃うと公民館で懇親会が始まる。私以外の「よそから集まった若者たち」この日じゅうに帰らなければならないので、アルコールなしであったが、私は最初から当日に帰る気はなかったし、もし仮に帰るとしても京都市内まで睡魔と闘いながらの運転は危険である。そこで私はお酒をご馳走になり、泊まって帰ることにした。

まず、私たちの自己紹介、そして地域の人たちの自己紹介。聞くとこの祭りの担い手の人たちは、若い頃は都会(京都や大阪等)に出ていたが、帰ってきた、という人が多いことがわかる。いずれの人たちも5~60代である。

一方でこの火祭りは、元は子どもたちが中心となって行われていた祭りであると伺った。新聞記事のリンクにもあるように、大火で燃えてしまった菅野の集落で、火除けの祈りとして始まったものだが、子どもたちは、この祭りを通じて火の扱い方や火の怖さを学んだのである。現在は子どもたちが関わることはないが、こうしてお祭りを年上世代から年下世代に受け継ぐ中で、教育的な意味合いがあったことが興味深い。

だが、現在集落数は30を割り、祭りの維持や伝承も困難になってきた。そんな中で、集落のリーダーたちが、「よそ者」たちにも祭りを開く決断をしてくれたことは意義のあることである。今回の「よそから集まった若者たち」はいずれも子どもが小さかったり、これから家族を持つだろう人たち。この火祭りに家族を連れて菅野にやってきて、親子で祭りに参加する。女性は火祭りに参加することはできないが、それでも燃える松明が山に登っていくのを眺めながら地元の方たちとコミュニケーションをとるのも良いだろう。単なる「イベントごと」にしてしまうことについては慎重に考えなければならないが、今回の試みは、地域の祭りや行事を受け継ぐ一つの形を今後示せるかもしれない。

翌朝、気がつくと私と地域の方一人。一人だけ残すのはどうか、と残ってくれたのだろう。感謝である。

二日酔いで頭痛がする中、帰路に着いた。

しかし、地域の「若い衆」は誰一人懇親会には来ていなかった。彼らはこの集落を、そして火祭りについて、どう思っているのだろうか。そんな疑問を持った。