誠信堂徒然日記

まちづくり、地域のこと、旅行記、教育や社会問題等徒然と。

日経連載「詩文往還 作家と中国」がおもしろい

 風邪引きで思うように動けないので、久しぶりに仕事とは関係のない文章を書いてみることにする。

 日本経済新聞で毎週日曜日に連載している比較文学張競氏による「詩文往還 作家と中国」がおもしろい。2014年1月5日から同年2月2日までは「司馬遼太郎の確認」というテーマの5回シリーズであったが、読むごとに、大学の学部時代に学んだ東洋史のかすかに残っていた知識が呼び起こされ、興味深く読んだ。

 それぞれの内容は、「中国は血族的儒教の国」「民を食わせる『聖人』を待望」「歴史感覚と歴史的な教訓から物事を考える」「『信義』を重視し『恩』を忘れない」「中央と周縁」というものであった。

簡単に概要を紹介したい。

(1)血族的儒教に見た文明の本質

 1975年、司馬遼太郎が戦後初めて中国を訪れた時、彼は毛沢東がいう作家とは、政治という名の宗教儀礼の祭司で、彼らには日本でいう作家とは別の倫理と精神と技能を持つことが求められていることに気付いた。それゆえ、(当時の)中国には作家というものは存在しないし、「革命文学」にも興味を持たなかった。

 司馬が文革中に中国に赴くことに躊躇がなかったのは「中国で何かを調べようとしたのではなく、むしろ確認のために行ったのではないか」(司馬遼太郎記念館上村洋行館長)という見解は間違いではないだろう。

 その「確認」したこととは、いくら毛沢東社会主義を標榜しても中国は血族的儒教の国であり、それが血族的儒教の国にならなかった日本文明と中国文明との違いであるということである。

(2)民を食わせる「聖人」待望論

 司馬遼太郎毛沢東の政治思想を非難しなかった。思想的に相いれないし、毛沢東思想の共鳴家ではないが、司馬が評価したのは、毛沢東が広大な国土を持つ中国の隅々まで民を食わすことができたということである。

中国を眺めるとき、司馬が特に注目したのは「食」のことであった。食料問題を重視したという点では司馬と毛沢東は共通している。

 古来、中国が乱れた時、庶民は聖人が出てきてこの世を救うことを基本的な願望としてきた。聖人とは別の言い方をすれば独裁者である。「聖人待望論」は共同幻想の余燼として現代中国にも残っているだろうというのが司馬の見立てである。

(3)「前近代」思考の根強さ予見

 「中国がわかりにくい」といわれるのは一つは政治感覚の違い、もうひとつは外交姿勢についてである。だがこれは、中国人の歴史感覚という補助線を引くと見え方が変わってくる。

 中国では世界の潮流よりも、歴史的な教訓に基づいて物事を考えることが多い。司馬も、中国のことについて考えるとき、目の前の事象だけを理解するのではなく、古代から現在へと続く歴史的な流れにおいて読み解こうとした。

 政治感覚のわかりにくさの最たる例が権力闘争である。それは古代から続いてきた文明のあり方の問題として司馬は理解しようとした。

 外交感覚の違いについて司馬は、ニクソン米元大統領の家族に対する礼遇について語ったことがある。米中国交樹立に尽力したニクソン氏は中国では高く評価されている(日本の政治家では田中角栄氏がそれに当たる?筆者注記)。

 こうしたことを一国の外交姿勢としてはひどく子供っぽいと評しながらも、「信」を重んじ、「恩」を忘れないことを最高の価値とする中国的な発想にそって考えれば、わからないことではない。

(4)信義重んじる「人間通」

 1979年の春、周揚を団長とする中国作家代表団が日本を訪問を訪れ、東大阪にある司馬遼太郎の自宅を訪ねた。その時、杜甫の詩「客至」にある詩句で交流したときのこと、周揚との交友について、そして当時の中国の政府高官である廖承志との交流のエピソードを紹介し、司馬が儒教的な意味での「信義」を重んじ、友情を大切にした人間通であったことをあぶりだしている。

(5)「周縁」に見た民族の複雑な地層

 司馬遼太郎が書いた唯一の中国の歴史小説は『項羽と劉邦』である。

日本の作家として、司馬が注目したのは漢という時代である。秦以前の中国大陸は多様性に富んだ社会で、さまざまな思想があり、多くの小国家が競い合っていた。

 漢は儒教を国家の指導原理とした。それ以降、中国は儒教社会を特徴とする点においては本質的な変化がなかった、と司馬は考えている。

現代中国の原型を作ったのが漢代であるならば、その王朝はいかに成立したかが、中国を知るカギとなる。それが『項羽と劉邦』を執筆する一つの動機と言えるだろう。

 日本は長い間、中国文明の周辺に位置していた、と司馬は言ったことがある。それは何も文化の上下関係を意味するものではない。むしろ、彼が注目したのは「周縁の力」とも言うべきものであった。

 周辺の力の最たる例が、少数民族の存在である。司馬遼太郎によると漢族と呼ばれたのは四方八方から中国大陸になだれ込んだ異民族が融合したもので、彼らは異なる文化、新しい技術も持ち込んだ。

 もう一つ注目されたのは、文化地理学の意味での「地方」である。

 また、「流民」も周縁の力として中国を解く重要なカギである。実際、流民は幾度も中華帝国の背骨を押しつぶした。王朝の衰退期に入ると、官吏が腐敗し徴税が厳しくなる。生活の困窮化により流民が増える。それに天災が起きると、武装化した集団となって一気に膨れ上がり、その結果王朝交代が起きるということを繰り返してきた。

 司馬遼太郎が亡くなって、間もなく(2月12日で)丸18年になる。司馬亡き後も日本と中国をはじめとする東アジアとの関係は友好と緊張との間で揺れ動いてきた。だが、2000年以上続く政治社会の構造や人々の価値観や考え方、国同士の関係が20年やそこらでがらりと変わるわけない。このことは大学時代にも学んだことだが、西欧的、近代的な政治イデオロギー国民国家観だけで中国を見ると、大きく見誤ることを改めて感じさせてくれた今回の連載であった。

 隣国との摩擦が絶えない昨今、中華文明や東アジア的価値観といったものをもう一度学び直すことによって、ヒートアップした政権与党幹部の頭の中や世論は少しは冷静になるのかもしれない。