誠信堂徒然日記

まちづくり、地域のこと、旅行記、教育や社会問題等徒然と。

身体を通じた経験

青木真兵・海青子『彼岸の図書館』を読んでいる。研究者でもある著者が奈良県東吉野村に開いた「人文系私設図書館ルチャ・リブロ」に注目している。

lucha-libro.net

この本の著者たちは、「街の生活で体調を崩し、ほうほうの体で東吉野村へ逃げ込」み、そこで「家を開いて図書館を作ったことで元気になっていった」のだという。
私は、書店や図書館、美術館など、教育や文化の拠点が都市部と比べて圧倒的に少ない地方において、私的なスペースを開き、それを用いて公共財としての文化的拠点を作り、そこに多くの人が集い、知の交換を行い、学びの場を地域に生み出し、そうすることによって、どんな地域であっても文化が生まれるということに興味がある。私が綾部に家を借りたのも、そうした場を作りたいという思いからだ。
 
さて先日、ゼミ生の成果物の入稿締切が間近に迫る中、足りない写真を探しに綾部に出かけた。今年度はコロナ禍により、大学生活は通常の半分もできていないように思われる。確かに、オンライン授業の方法は慣れも手伝い、年度初に比べればずいぶんブラッシュアップされてきた。ゼミも秋学期には再開したが、フィールドワークは結局思ったように行うことができず、現地に赴いたのは1回程度、あとはオンライン等によるインタビューが1回程度、といった具合だ。
成果物に掲載する写真やテキスト等は地域の方や行政からの提供もありなんとか揃ったが、学生等がアウトプットしたものには何かが足りない。「情報」としては一通り揃っているものの、なにかが足りない。どことなく「平板」なのが気になる。
なかなか出揃わないコンテンツもあり、これ以上デザイナーさんや行政の担当者の方を待たせるわけにはいかないと思い、現地に赴いたのである。
バスを降りると、うららかな春の陽が心地よく、バス停から3〜4kmはあろうかと思う集落までの道を歩くことにした。梅の花が満開を迎え、地面の所々には蕗の薹が顔を出している。田んぼでは田起こしが始まり、土の匂いや陽光の柔らかさからもその地域の魅力や雰囲気を感じとることができた。

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再び『彼岸の図書館』に戻る。
この本の中に、「身体を通じた経験がない現代人」という件がある。そこには、「身体は反射反応のように自分にとってよい方向に動いていこうとするが、意識としてコントロールできない部分がある。そういう存在を知っておくことがすごく大事」ということが書かれているが、里山をてくてく歩く中で、ここの記述が思い起こされ、コロナ禍であまり現地に赴けなかった学生たちの記述の物足りなさとつながったのである。すなわち「身体的な感覚」の不足によるものだったのである。
 
インタビューした内容をトランスクリプト(テープ起こし)したり、テキスト分析したりといった作業はもはやコンピュータに任せることが可能になり、人にとって「面倒な作業」からは解放されることになった。また、インタビューそのものも、現地に赴くことなく、オンラインで十分に行えることがこのコロナ禍で明らかになってきた。
だったら、人が現地に赴く意味、意義とはなんだろうか?私は、「身体を通して何かを感じ取る」ためだと思う。
 
「コロナ禍で地方移住が進むのでは」といった報道が増えてきているが、単に「生活費がかからない」とか「子育て世帯に手厚い支援」ということだけが地方移住の決め手になるのだろうか、という疑問がある。今は感染リスクを避け、かつ在宅ワークが可能になったことで「3密」の都市部を離れているが、アフターコロナはどうだろう。再び「都市回帰」ということはないだろうか?
住む場所の選択は、当然経済合理性によるところも大きいだろうが、選んだその地を「わがまち、わが村」として認識するか否か(それは必ずしも「腰を落ち着ける」ことだけを意味するのではない)は、その人の「生き方」「価値観」が、その地域の醸し出す雰囲気や空気感とぴったり合ったときに「ここだ」という感覚を呼び起こすのではないだろうか。そしてそれは、数値的な指標やエビデンスでは測れない。
 
「うまく説明できないけれど、なんかいい」「他の人はなんとも思わないけれど、自分はすごくいいと思う」といった身体を通じて何かを感じ取ることなのではないか。私が綾部に対して抱く思いもそこにあるような気がしてならない。
 
参考
青木真兵・海青子『彼岸の図書館』夕書房、2019
どこにいても学び続けること 文化的拠点の“ない”場所で 「知」をどう生み出すか考える。

www.hinagata-mag.com

(2021年3月16日閲覧)